41号「新しい時代への着実な変化 ①」

つい先日の事のように思い出す阪神大震災から早くも15年経ちました。今の僕の生活はサラ・シャンティの活動が中心になっています。もし震災が来ていなかったらサラ・シャンティも生まれていませんし、その時いったい自分は今なにをしているだろうと、人生の不思議なめぐり合わせに感慨深くなります。震災は本当に僕の人生を大きく変えました。

1988年の2月父から電話が掛かってきて「裏にある家が売りに出たからお前が買って引っ越してこい」と言われ、まだ夙川の家に引っ越して3年も経たないのに、生まれ育った神社の森の近くの家に戻れると即刻決断しました。昭和の初めに建った木造2階建ての家で、道路の表側に父母の家、その裏の日当たりの悪い家に住むことになりました。駅前の立地を生かし、この2軒の土地を合わせて将来ビルを建てるという夢を父は僕に託したのです。
でも何故か心の中にずっと以前から「いずれビルを建てる」ような気がしていました。多分子供の時に父がそんな話をしたのが潜在意識に刷り込まれていたのでしょう。でも僕はそんなことを誰にも話したことはありませんので、突然の引越しに妻は納得のいかない様子でした。と言うのはこの引っ越してきた家はかなり柱や廊下が傾き、東側が神社の森、残りはビルに囲まれていて日当たりが悪くジメジメして、隙間風が入るような古い家だったからです。

そんなことで将来ビルを建てることを考え始めたのは必然の成り行きだったのですが、考えれば考えるほど難題が浮かんできて、会社勤めをしながらではとても無理、「定年後に退職金をもらってからだろうなあ」と思っていました。ところが東隣の印刷会社が裏の空き地に大きなビルを建てる話が始まり、大変だ、森が見えなくなるし大きな壁が出来る、これ以上住み心地が悪くなったらどないするねん、嫌やなーと思っていたら、そこへドカンと震災が起こったわけですから、一気に難問が解決してしまったのです。

2軒の家が全壊・半壊となり、川まで水を汲みに行ったり、落ちた壁を補修したり、屋根の雨漏り防止のためのシート被せや補修で屋根に上がったりの生活が始まりました。そして父母と私たち家族の引越し先を探し、家財の整理や建物の解体、ビルを建てることがすべて僕の双肩に掛かってきました。会社勤めと両立しなければなりません。しかし、社長の家も全壊し同じ被害者の立場で理解してもらえたのも大地震のお陰でしょう。

父母の家の件は、タイミング良く父の診療所のあるビルの5階に部屋が空いたので直ぐに契約しました。自宅のまん前の部屋ですので必要な家具だけ持ち込んで住み始め、家の解体までのんびりと家財の整理と処分ができる便利な環境が整いました。私たちの引越し先は、犬を飼っていたので一戸立に住みたいと思っていたら、隣人が「岡本の家を出るから代わりに入りませんか」ということで解決し、やっとビルを建てる構想を練り始めたのは半年後の6月頃。一度立てたら修正の効かない一世一代の大仕事ですので、いろんな人の紹介の建築会社7社に設計図を合わせて10枚も描いてもらいましたが、どれも気に入るものがありません。返済計画を立てると資金的にも融資を受けるのは無理ですよと言われ困り果てました。

震災後はトライアスロン協会で引越しボランティアを組織したり、ヨガを習い始めたり、不思議系の大阪の波動研究会の活動に参加したり、サイババの教会に行ったりと、震災ショックを自分で癒そうとしてか、なぜか家から出かけていろんなことに夢中になっていました。この行動が何か問題が起こっても焦って失敗するより、良い解決策やイメージが浮かんでくるまでのんびり待つスタイルとして確立し、そしてサラ・シャンティの構想が生まれ、イメージを形にしていく上で大切な時間にもなっていました。また参考にするため、同規模のマンションなど見て歩き、人気の設計や失敗例、設計不良の問題など見て歩きました。

8月のお盆の頃たまたま近くの小学校に出かけたとき、そこで被災者相談で資金計画から設計図まで書いてくれる設計会社の人に出会い、事情を話し7社の設計図を見せて、何度も何度も書き直してもらい、やっと満足の行く設計が完成したのは翌年の3月になりました。2階にサラ・シャンティのスペースもきっちり生まれ、自分たちの住居スペースも何とか満足できるものなりました。大手建築会社の見積部見積課の友人に内容を見てもらうと、「これは良いビルが建つ」と太鼓判を押してもらえました。

ここでいよいよ建築会社を決める大仕事です。入札に参加する建築会社6社に設計図を送って、期日までに見積もりを提出してもらい、中から一番安い金額を出した会社を選びます。嬉しいことに通勤途中に寄れる地元の建築会社が一番低い見積り額を出してくれました。さらにその会社の取引銀行が私の勤め先のビル地階に在ったので、建設が終わるまでに融資のことなどで銀行にはちょくちょく仕事を抜け出して行く必要があったので、エレベーターで降りた所にある近さは本当に便利でした。

隣の産土様の八幡神社に地鎮祭をしてもらって、6月末に建設が始まり完成は翌年の3月末と決まりました。今度は毎週建築現場での定例会議が始まり、この間いろんな決断を迫られることがありました。同時にサラ・シャンティの講座の内容を具体化する作業がやっと始まりました。その時一番相談に乗ってくれて僕を励ましてくれたのが、これも同じ勤め先のビルで出版企画の会社をしていた中学時代の友人の高森一徳さんです。彼はサラ・シャンティの構想を大変気に入ってくれ、昼休みになるとビル内の喫茶店で会っていろんなアイデアを出して励ましてくれました。

高森さんは震災後すぐに記録を残すことが大切と、自費出版で被災者の声を集めた本を10年出し続けることを宣言、「阪神大震災を記録する会」を立ち上げるような男。サラ・シャンティの講座案内の校正や印刷もしてくれ、自分のホームページのサイトを貸してくれたり、趣味の周易の講座も自らが講師になって開講してくれたりと親身になって数々のサポートしてくれました。しかし、その彼がちょうど10年目に10冊目の記録集が完成した翌朝に心筋梗塞で亡くなったのはショックでした。本当に良き理解者だった大切な友人を失ったことはさびしく無念なことでした。
ビルは1997年の3月末に竣工し、サラ・シャンティのお披露目と道場開きは4月初めに沢山のゲストを招いて盛大に開催できました。感謝することが一杯ありましたが、振り返ってみて何と言っても一番有難かったのは、黙って見守ってくれた私の勤め先の同僚たちです。設計当初からあれこれと勤め先には頻繁に電話が入り、私も必死で取り組んでいたので、とてもこの間仕事に集中していたとは思いませんので大変迷惑をかけていたと思います。震災があったからこそ理解してもらえたと考えると、もし僕の個人的な利益目的だけのビル建設だったら、こんなに多くの人に支えてもられることはありえなかったでしょう。

全国からのボランティアによる復興活動、地震後に生まれたご近所との助け合いの精神、被災家屋の解体費用の補助、被災者のための公的な支援や融資制度、そして家族・兄弟の協力と支援などの幸運にも助けられながらビルは完成しました。ですからビルは自分の意思や力で建てたとはとても思えません、これまで人ごとと思っていた神秘体験や奇跡と思うような体験が数々あったり、日々の私の行いが監視されているような大いなる意思の計らいに対して、この感謝の思いをサラ・シャンティの活動を通して社会に役立てて行こうと真剣に考えるようになりました。

ですから、六甲に新しい地域文化を創り出したいという心意気で、ビルの名前も「六甲を創造する」という意味のスペイン語で「クレアール六甲」とし、道場は「出会いの広場・健康道場サラ・シャンティ」とスピリチャルな名前にしました。しかしこの頃はまだ「怪しい」とか、「新興宗教と違うか」と言われるような時代だったのです。タイミング悪くオウム真理教が事件を起こし、ヨガ全体が誤解されるというおかしな風潮が生まれ、ヨガ教室も減りました。しかしいずれヨガが復活し本格的に理解が深まる時代が必ず来ると強固な信念がありましたのでへこたれませんでした。

楽しく活動ができて理解してくれる人だけの会員制にする方針で講座案内を作り、ご縁や出会いを大切にしていく場になってほしいと思いました。そして、同じ気持ちを共有できる人々が、メッセージや思いを伝え続ける媒体が必要だし、それを継続することで私自身の信念を固めていきたいとの思いで会報「出会い」も創刊しました。そして15年近く過ぎて「友愛革命」を訴えるような首相が誕生し、今や本当にスピリチャルな時代、サラ・シャンティという名前も受け入れられる新しい時代へと着実に意識が変わってきています。

そう思って63歳の歳月を振り返ると、ほんとに現実かフィクションか分からぬような時代を生きて来て、歴史を書き換えるような事実が明らかになったり、知れば知るほど歴史の舞台に生かされてきたことが実感できます。それを可能にしたのがパソコンで、必要な情報を得るだけではなく、自分のネットワークや個人への発信には不可欠な道具になりました。サラ・シャンティのこともホームページやMLで発信するのに、頭も良く使うのでボケ防止になるからと頑張っています。今やインターネットではびっくりするような世界の裏情報を知る時代となり、その情報の多さに圧倒されます。Uチューブでは、新聞などでは報道されない映像や世界中の音楽など無料で鑑賞することができる時代になりました。テレビはスポンサーで成り立つ商品販売のための道具で、人の意識を受身にする認知症の元凶ですから、もはや「地デジ」なんて無用の長物を買わされるのは困ったことです。
サラ・シャンティは公共施設のように時間制限で追いだされることなく音楽の生演奏から落語会、講演会もじっくり落ち着いた雰囲気で、演者と参加者が身近に接することができ、共に豊かなコミュニケーションが創出する空間と好評です。昨年は大きなスクリーンを設置し映画の上映会や講演にも役立っています。

* 土居正明先生の「かたかむな暦講話」では無教祖、無教義、無経典、無戒律などの神道の原点を知り、日本人の信仰のための大切な基層文化を天地自然の理で理解し、音霊・言霊の深い精神文化の大切さを説かれます。
* 「ガン呪縛を解く」の著者でソマチッドの講演をしていただいた稲田芳弘さんが《カタカムナ》の楢崎皐月に若い頃から直接師事されていたことを知り、この度の著書出版を機会に1月24日の講演が実現しました。

* ユルユル甲田療法の前田紀美子さんの講座やきくちゆみさんの野菜の生きた酵素を食べるローフードも食生活改善に説得力のある内容を続けて発信していきます。 

* 昨年は天才と云われるピアニスト平原誠之さんの実験的な演奏会が実現。平原さんを囲むように座って、その超絶技巧でギターのトレモロのように繊細な指の動きや感情豊かに奏でるショパン、リストの名曲が鑑賞できる贅沢なコンサートになりました。

* 桂九雀さんの落語も身近な距離でド迫力の演技に子どもたちはびっくりして目を丸くして聞いています。耳が悪い私の母は、補聴器なしでも聞けると喜んでくれます。

 今、サラ・シャンティのおかげで出会える様々な才能を持った人たちとのご縁を大切にし、演奏会や講演を企画し、多くの方との交流が生まれ、新しい文化が創出する、そんなお役目を与えられたことに感謝しています。


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サラ・シャンティ

Author:サラ・シャンティ
戦後70年、封印されていた日本人の意識を目覚め、世界の期待に答えるために、高天原の神々からの波動を受けた人々が活躍する時代となりました。そして縄文基底文化に秘められたカタカムナの謎が次々に明らかになりつつあります。天命を抱いてサラ・シャンティに集われる講師の方々をご覧いただければお分かりになるでしょう。

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若い頃からメキシコやキューバに出かけたり、古武道との出会いから気功やヨガ、トライアスロンとエスカレートして得た不思議な体験から、なぜサラ・シャンティが生まれたのかを語る自叙伝です
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