神道夢想流杖道との出会い
私は学生時代にメキシコへ留学し、現地の人たちが日本人に抱く「空手ができるサムライ」といった期待にまったく答えられず、恥ずかしい気持ちになったことでした。ですから帰国してから何か日本人としてのアイデンティティを持てるような武道をしたいと思いました。
やっと社会人になって偶然のことから始めた大東流合気柔術ではケガが続き、稽古が思うようにできなくて嫌気がさした時、杖道に出会いました。長身で痩せている私には筋肉質の肉体派が苦手で、柔術は不向きだと感じていたので、その頃私が住んでいた甲子園の個人道場で古武道をしていた方が「清水さんにピッタリの古武道の杖道がある」と紹介していただき、見に行きました。
長さ約128cm、径が約24mmの軽い白樫の棒は体力のない私にとって負担を感じることなく振り回せ、打太刀と仕杖に分かれる二者が攻撃防御の形稽古では、大声で「エイッ!」「ホォッ!」と力強く気合を発する杖道を見て、「これは元気になれる一生続けるぞー」と直感し、すぐに入門したほど「杖道」は人生の方向を変える決定打になりました。
この頃は気功も習ってましたので、私の杖道に対する稽古の姿勢は、稽古直後や翌日の爽快感が格段に気持ちよかったこと、運動量も多く直感的に私の健康法として最適であり、同時に体も鍛えられて良いといった程度でした。
恥かしながら武道の精神というものにそれほど関心がなかったのですが、神棚のある道場で「礼によって始まり礼によって終わる」稽古の純日本的な世界にも気分が落ち着きました。中国語や横文字の多い健康法に違和感も持っていたこともありました。
指導してくださる松田浩弥師範も、その僕の気持ちを悟られたかのように、週に2回の稽古では大変やさしく根気よく丁寧に教えて頂いて、それに応えて早く上達したいと毎日のように稽古に励みました。しかしまだその時は松田師範が、私の人生の師となるほどの影響を与える「出会い」と気づきませんでした。
やっと1年ほどして基本を習い終えた頃に、徹底的な事が起こりました。吉田さん、根来さんが入門してきたことです。吉田さんは大柄で合気道や修験道を極め、その頃毎朝に滝行をされてから会社に行かれるような人。根来さんは柔整師で空手を指導される高段者、共に松田師範の杖道の世界での実力を判って入門されてきたので、私のような訳も判らぬ軟弱モノとは桁違いの武術家達です。
今までと違った厳しい緊張感が道場に生まれ、私は一生続けると決意しただけに、唯ついていくだけで精一杯でした。お二人の入門と同時に松田師範も六甲山青谷での滝行に行かれるからと私も誘われ、根来さんが毎週日曜日の朝4時に自宅まで車で迎えに来られるという事で行くことになりました。この頃の冬季の滝場はマイナス7度の極寒で必死になって滝を浴び、その後も山の中で杖の稽古があり、家に帰ると緊張が解けて又布団に入って寝ていました。
大晦日の除夜の鐘の鳴る時刻や2月12日建国記念日の伊勢神宮の五十鈴川での禊も始まりましたし、お盆の大峰山と冬の愛宕山での奉納演武、その他の武道大会が年中行事となり、本当に武道三昧で心身共に鍛えられました。お陰で何が起ころうと驚かない精神力を養えました。
37歳の時、兵庫県のトライアスロンクラブの結成説明会があると会社の同僚に声をかけられて参加し、車を持たず、自転車が好きな私にはピッタリだと思って始めました。仕事と両立するために通勤をバイクで往復したり、ランニングしたりで合理的なトレーニングを工夫して時間を作り、更に私を鍛えることになりました。
最初は短い距離から徐々に長い距離に慣れ、3年ほどでフルマラソンを完走できるようになり各地の大会に出場しました。その後宮古島大会、100キロマラソンにも耐える体力・気力が養われ、師範からの評価が大きく変わりました。
この時期にタイミングよく杖の仲間から夏山にも誘われ、お陰で北から南のまでのアルプス縦走にも20キロのリュックを背負って行くようになり、とても以前の私では考えられない事が出きるようになって、会社での評価も変わりいつの間にか「鉄人」と呼ばれるようになってました。
阪神大震災が起こり、2年後サラ・シャンティを97年4月に始めたことから、会社との両立で大変忙しくなりましたが、それでも細々と杖道とトライアスロンを続けてきました。その頃の事や私がトライアスロンで培った体験については、ホームページのコラムに掲載した「生涯スポーツとしてのトライアスロン」をご覧ください。サラ・シャンティが生まれることになった不思議な体験の数々は、会報「出会い」に書き綴ってきましたが、いずれブログに公開する予定です。
3年前60歳定年となり、現在サラ・シャンティに情熱を注いでいますが、33年前に始めた杖道にもやっと本腰を入れる環境が整ってきて「人生に偶然はない、すべて必然・必要・ベストである」との言葉の含蓄の深さを味わっています。
やっと社会人になって偶然のことから始めた大東流合気柔術ではケガが続き、稽古が思うようにできなくて嫌気がさした時、杖道に出会いました。長身で痩せている私には筋肉質の肉体派が苦手で、柔術は不向きだと感じていたので、その頃私が住んでいた甲子園の個人道場で古武道をしていた方が「清水さんにピッタリの古武道の杖道がある」と紹介していただき、見に行きました。
長さ約128cm、径が約24mmの軽い白樫の棒は体力のない私にとって負担を感じることなく振り回せ、打太刀と仕杖に分かれる二者が攻撃防御の形稽古では、大声で「エイッ!」「ホォッ!」と力強く気合を発する杖道を見て、「これは元気になれる一生続けるぞー」と直感し、すぐに入門したほど「杖道」は人生の方向を変える決定打になりました。
この頃は気功も習ってましたので、私の杖道に対する稽古の姿勢は、稽古直後や翌日の爽快感が格段に気持ちよかったこと、運動量も多く直感的に私の健康法として最適であり、同時に体も鍛えられて良いといった程度でした。
恥かしながら武道の精神というものにそれほど関心がなかったのですが、神棚のある道場で「礼によって始まり礼によって終わる」稽古の純日本的な世界にも気分が落ち着きました。中国語や横文字の多い健康法に違和感も持っていたこともありました。
指導してくださる松田浩弥師範も、その僕の気持ちを悟られたかのように、週に2回の稽古では大変やさしく根気よく丁寧に教えて頂いて、それに応えて早く上達したいと毎日のように稽古に励みました。しかしまだその時は松田師範が、私の人生の師となるほどの影響を与える「出会い」と気づきませんでした。
やっと1年ほどして基本を習い終えた頃に、徹底的な事が起こりました。吉田さん、根来さんが入門してきたことです。吉田さんは大柄で合気道や修験道を極め、その頃毎朝に滝行をされてから会社に行かれるような人。根来さんは柔整師で空手を指導される高段者、共に松田師範の杖道の世界での実力を判って入門されてきたので、私のような訳も判らぬ軟弱モノとは桁違いの武術家達です。
今までと違った厳しい緊張感が道場に生まれ、私は一生続けると決意しただけに、唯ついていくだけで精一杯でした。お二人の入門と同時に松田師範も六甲山青谷での滝行に行かれるからと私も誘われ、根来さんが毎週日曜日の朝4時に自宅まで車で迎えに来られるという事で行くことになりました。この頃の冬季の滝場はマイナス7度の極寒で必死になって滝を浴び、その後も山の中で杖の稽古があり、家に帰ると緊張が解けて又布団に入って寝ていました。
大晦日の除夜の鐘の鳴る時刻や2月12日建国記念日の伊勢神宮の五十鈴川での禊も始まりましたし、お盆の大峰山と冬の愛宕山での奉納演武、その他の武道大会が年中行事となり、本当に武道三昧で心身共に鍛えられました。お陰で何が起ころうと驚かない精神力を養えました。
37歳の時、兵庫県のトライアスロンクラブの結成説明会があると会社の同僚に声をかけられて参加し、車を持たず、自転車が好きな私にはピッタリだと思って始めました。仕事と両立するために通勤をバイクで往復したり、ランニングしたりで合理的なトレーニングを工夫して時間を作り、更に私を鍛えることになりました。
最初は短い距離から徐々に長い距離に慣れ、3年ほどでフルマラソンを完走できるようになり各地の大会に出場しました。その後宮古島大会、100キロマラソンにも耐える体力・気力が養われ、師範からの評価が大きく変わりました。
この時期にタイミングよく杖の仲間から夏山にも誘われ、お陰で北から南のまでのアルプス縦走にも20キロのリュックを背負って行くようになり、とても以前の私では考えられない事が出きるようになって、会社での評価も変わりいつの間にか「鉄人」と呼ばれるようになってました。
阪神大震災が起こり、2年後サラ・シャンティを97年4月に始めたことから、会社との両立で大変忙しくなりましたが、それでも細々と杖道とトライアスロンを続けてきました。その頃の事や私がトライアスロンで培った体験については、ホームページのコラムに掲載した「生涯スポーツとしてのトライアスロン」をご覧ください。サラ・シャンティが生まれることになった不思議な体験の数々は、会報「出会い」に書き綴ってきましたが、いずれブログに公開する予定です。
3年前60歳定年となり、現在サラ・シャンティに情熱を注いでいますが、33年前に始めた杖道にもやっと本腰を入れる環境が整ってきて「人生に偶然はない、すべて必然・必要・ベストである」との言葉の含蓄の深さを味わっています。